ルースキー スヴェニール マトリョーシカ-1

(知人に配る目的で本訳書を自費で製本しました。100部少々残りましたので、ヤフーオークションに出品します。)
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 マトリョーシカ誕生から、初期の様々なマトリョーシカが紹介されます。いきなり日本の箱根人形が参考になったと紹介されます。

 2013年9月、マトリョーシカを紹介する興味深い動画を見つけたので、ブログに貼り付けました。
 併せて御覧頂ければ幸いです。この文をクリックしていただけば番組紹介のページに飛べます。 

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 マトリョーシカは世界的によく知られた、ロシアの可愛い記念品です。
 このことはロシアの言語、歴史、文化などに詳しい人ばかりでなく、ロシアを知りはじめたばかりの人にもわかります。
 マトリョーシカは、はっきりしたユニークな特徴ある文化現象になりました。
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 今日では、それがほんの100年前に存在しなかったとは想像しにくいことです。
 最初のマトリョーシカは19世紀末に現れたにすぎませんが、ロシア民衆芸術のシンボルとして、ロシアを包括するイメージの代表として広く知られるようになりました。
 19世紀末、ロシアは、経済的にも文化的にも急激に発達し、国民意識が芽生え、社会の中で、芸術をはじめとしてロシア文化全体に対する関心が高まり始めました。
 「ロシア様式」という呼び名でよく知られている芸術の大きな流れができ、そんな流れの中で、V.M.ヴァスネツォフ、K.A.ソモフ、M.A.ヴルーベリ、I.K.レリフ、V.A.セロフ、F.A.マリャーピン、K.A.カローヴィン、S.V.マリューチン等の芸術家は、ロシア民族の独自性を復興する新しいスタイルの創造に取りつかれていました。
 彼らは芸術と生活の過去と現在を調和させ、これらの総合的な統一を見つける必要があることがわかっていました。
 彼らの活動の結果19世紀末から20世紀初頭にかけてロシアの精神的・文化的な中心と言えるような芸術家の団体ができました。
 これらの伝統的なロシア文化を復興させ発展させた団体の中で、まず目につくのが有名な商人で、企業主で、芸術の後援者でもあったS.I.マーモントフ(1841~1918)のアブランツェヴォの芸術家サークルです。
 サヴァ・イワノヴィッチ・マーモントフは、新しいロシア様式を志す芸術家を自分の周りに集めた後援者の一人でした。
 モスクワ郊外のアブランツェヴォにある彼の屋敷に芸術家の工房ができました。

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 そこでは専門的な芸術家と共に、数世紀にわたって保たれてきた伝統工芸の達人達も一緒に活動していました。
 マーモントフ一家は芸術品の収集と、その価値の啓発に努めました。彼らが集めた芸術作品の中には農民の玩具もありました。伝統的民芸の農民玩具を復活させ発達させることが重視されました。
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7ピースのマトリョーシカ
фукуруму フクルム
日本 1890年代末期
芸術的・教育的・玩具博物館

 この点に関して、S.I.マーモントフの兄のアナトーリ・イワノヴィッチ・マーモントフ(1839~1905)一家の功績も軽視できません。この家族は「ジェーツコエ・ボスピターニエ(子育て)」という、色々な玩具を作って売る工房兼商店を経営していました。そこで扱われていた様々な、地方色豊かな晴れ着を着た、いわゆる民族人形は、特に目を引くものでした。
 アナトーリ・イヴァーノヴィッチ・マーモントフは出版業者で、通訳で、印刷所のオーナーで、そしてロシア芸術のコレクターで、弟のサヴァ・イヴァノヴィッチと同じように、並はずれた活動家で、いつも専門的な芸術家、手工業者、民芸の達人等に囲まれていました。

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(21)C.Малюитн (роспucь), В. Звёздочкин (Форма)
S.マリューチン(絵)  V.ズヴョーズドチキン(形=旋盤)
8ピースのマトリョーシカ
モスクワ 工房・売店 ジェー,コエ・ヴォスピターニエ
1890年代末
玩具博物館

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 A.I.マーモントフは玩具制作のために独創性とファンタジーを求めて、高度な技術を持った熟練玩具職人を自分の工房に招きました。
 玩具職人の視野を広げ、彼らの創造性を刺激するため、工房に様々な国から玩具が取り寄せられました。
 特にこの時代流行っていたのは東方の芸術で、中でも日本の視覚的、装飾的な工芸に人気がありました。(※1)
 有名なロシアのマトリョーシカに先立つ原型として日本の本州からもたらされたのは、温厚な禿頭の老人の形をした仏教徒の賢人のフクルム(※2)で、その中にさらに数個の同じような人形が順に取り出せるように入っているものでした。
 この人形の底には「日本製」というスタンプが押してあります。
 ところで、日本人は最初に、ロシアの無名の僧侶が日本の本州でこのような玩具を旋盤で作ったと主張しています。
 現在、フクルムの人形はセルギエフ・パサートの「芸術教育の玩具博物館」(以下「玩具博物館」と略)に保存されています。

※1 原書脚注  1896年(明治29年)にサンクトペテルブルクで開かれた日本芸術の展覧会はこの傾向にかなり強い影響を与えました。
 (A.P.オストロウモワ・レベデワは、彼女を驚かせた事実を後に思い出して次のように書きました。『鋭い写実と並んで、簡略化された様式、ファンタスティックで神秘的な世界。』)
※2 訳注 箱根入れ子人形の七福神。一番外側が福禄寿なので、福禄寿が訛ったものと考えられる。

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 ロシアの最初のマトリョーシカには、伝説上の誕生の地である、A.I.マーモントフの工房「ジェーツコエー・ヴォスピターニエ(子育て)」のスタンプが押されています。
 この玩具の旋盤細工は、玩具職人の家系のワシリー・ペトロヴィッチ・ズヴョーズドチキンが担当しました。
 また、最初のマトリョーシカの絵付けはA.I.マーモントフの依頼で子供の本に挿絵を描いていたS.V.マリューチンが担当しました。
 だから、最初のマトリョーシカに付けられた絵は絵本の挿絵とよく似ていました。
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Д.Пичугин D.ピテューギン
12ピースのマトリョーシカ 貴族
セルギエフ・パサード 1903~10年 
玩具博物館

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 S.V.マリューチンとV.P.ズヴョーズドチキンは、自分たちが力を込めて誕生させたロシアの木製入れ子人形が、後にある種の謎めいたロシア精神を秘めて世界中に広がるとは考えもしなかったことでしょう。
最初のロシアのマトリョーシカを作った人は、実に才能豊かでユニークでした。
偉大な詩人のリルケは、19世紀と20世紀の変わり目にロシアを訪れて、タオルや衣類の刺繍や木彫製品に見られるロシア古来の技術が民衆の中に生き残っていて、S.V.マリューチンが豊かで力強いロシア古来の作品の形と色をよく把握して、自分なりに使いこなしていることに目を瞠りました。
 商人出身のS.V.マリューチンは単に考古学や民族学の資料ばかりでなく、ロシアの伝統的な工芸そのものを理解していました。
 才能と直観力に恵まれた彼は、専門的な芸術と工芸を結びつけた芸術家の第一人者でした。
 彼の軽快で、優雅で、純粋なマトリョーシカは、刺繍の入ったブラウス、サラファン、エプロン、花柄のスカーフなどを身につけて、黒い雄鶏を手に持った、丸顔の農民娘の姿をしていました。
 ロシアの木製入れ子人形はマトリョーシカと呼ばれました。
 マトリョーナやマトリョーシャというような名前は、ラテン語の「マター」、つまり母親が語源で、革命前の田舎で最も普及していた女性の名前のひとつだと考えられていました。
 この名前は大家族の、健康で、ふくよかな母親を連想させるものです。後にそれは普通名詞になり、色鮮やかな模様を描かれた木工旋盤細工の入れ子人形を意味するようになりました。

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(44)А. Шишкин A.シーシキン
ウクラートカ(装飾ケース) 貴族婦人
ウクラートカ 貴族
セルギエフ・パサード 1920年代
玩具博物館

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ネヴァリャーシカ(起き上がり小法師) 農婦
セルギエフ・パサード1900~14年
玩具博物館

 たくさんの家族を持って、母性と豊穣という人類文化の最も古い基本的な観念を見事に表現していたから、マトリョーシカは、今日までそのシンボルとして残りました。
 ワシリー・ズヴョーズドチキンが旋盤で削って、セルゲイ・マリューチンが絵を付けたロシアで最初のマトリョーシカは、8ピースで、黒い雄鶏を持った少女に続いて少年、そのあとでまた少女というふうになっていました。
 全ての人物は互いに描き分けられていて、最後の8番目はオムツをあてた赤ん坊の姿をしていました。
イースターのタマゴのように、以前から入れ子の木製品を作っていたロシアの職人は、マトリョーシカを作る技術を簡単に習得しました。

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V.イワノフ
8ピースのマトリョーシカ
蕪おじいさん(大きな蕪とおじいさん)
セルギエフ・パサード 1903~1904年
玩具博物館

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Маcmep Шapпанов シャルパノフ
8ピースのマトリョーシカ 「老人」
セルギエフ・パサード 20世紀
玩具博物館

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8ピースのマトリョーシカ
旧教徒
セルギエフ・パサード 20世紀
玩具博物館

 マトリョーシカを作る原理はロシアの全ての熟練した旋盤職人に今日まで変わることなく伝えられています。
 マトリョーシカは菩提樹、白樺、ハンノキ、ヤマナラシ等の広葉樹の木材で作られます。
 最も望ましい素材は菩提樹です。
 マトリョーシカを作る木は、生気溢れる早春、一般的には4月に伐採します。
 伐採した木は、ある程度の長さに切り分けて樹皮に包まれたままにしておきます。そうしないと、乾燥するときに木質部にヒビが入るからです。
 このように準備された木は断面を塗装して、空気を通すように互いに隙間を空けて積み重ねておきます。

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バラノフ
8ピースのマトリョーシカ
セルギエフ・パサート 1900~1914年
玩具博物館

 木材は2年以上屋外で空気に晒します。
 素材の準備できている度合いを判定できるのはベテランの職人だけです。
 それから、マトリョーシカの材料として適度に切り分けます。
 マトリョーシカを作る準備として旋盤工は15段階程度の作業をします。
旋盤で人形を削るために職人は、ナイフと色々な種類のノミという、比較的単純な道具を使いこなす並はずれた技量が求められます。
 普通、最初に最も小さな、中のつまった人形を削ります。
 次に作るのは口の開くマトリョーシカで、最初に下半分、つまり底を旋盤で削ります。
 続いて、接合部分を必要なサイズに削り、最後に切り落とします。
 それから、マトリョーシカの上半分を被せる輪の部分を内側から削り中空にします。
その後でマトリョーシカの上半分に下半分の輪が食い込むように、マトリョーシカ頭部内側の木を削り取ります。
 こうした一連の作業は、目測ですから、高度な技術が要求されます。
 マトリョーシカの上半分は下半分をくわえこんだまま乾燥して引き締まります。
 旋盤工の仕事が終わると、雪のように白い木の人形を綿密に磨いて、後に描き入れる絵の具が人形の表面でにじまないように、理想的に滑らかになるように、デンプン糊で下塗りして乾燥させます。
 これでマトリョーシカは絵をつける用意ができました。
 最初のマトリョーシカは、S.V.マリューチンが自分で輪郭を焼き付けて、ガッシュで着色して、透明ラッカーをかけました。

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7ピースのマトリョーシカ
「ツィガンカ」(ロマ人。昔はジプシーといわれました。ジプシーは「エジプトから来た人」という意味だったのですが、これが誤解だったことがわかり、彼らが自称による「ロマ人」と呼ぶことになっています。ごの「ロマ人」のロシア語が「ツィガン」その女性形が「ツィガンカ」です。)
セルギエフ・パサード
1900~1914年
玩具博物館

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В. Звёздочкин        ズヴョーズドチキン
4ピースのマトリョーシカ
セルギエフ・パサード
20世紀初め 玩具博物館

 19世紀90年代末までマトリョーシカはモスクワのジェーツコエ・ヴォスピターニエ(「子育て」)という工房で削られ着色されていたのですが、工房が閉鎖されてからは、古くから玩具製造センターであったモスクワ郊外のセルギーエフ・パサードの、教育見本工房でそれを削ったり、着色したりする技術が習得されるようになりました。
 間もなくここでこの玩具が大量生産されるようになり、セルギーエフ・パサード様式、またはザゴールスク様式と呼ばれるようになりました。(1930年この町はザゴールスクという名前に変わり、最近歴史的な呼び名に戻りました。)
 セルギーエフ・パサードはモスクワから73キロメートルの、有名なセルゲイの三位一体大修道院の町として発達しました。
 1340年、セルギイ・ラドネジスキーという修道士が人里はなれた森の中に、後に時間の流れとともに大きくなって、ロシア国家の大修道院となる、小さな道場を建てました。

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マトリョーシカ 
セルギエフ・パサード 1925年
玩具博物館

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Д. Питюгин             D.ピテューギン
12ピースのマトリョーシカ
バルト地方の人々
セルギエフ・パサード 1903年~1910年
玩具博物館

 大修道院の周りの自由農民の集落では色々な工芸品が発達していました。
 特に、トロイツカヤ(三位一体)と呼ばれる木の玩具の生産が目につきました。
 言い伝えによると最初のトロイツカヤと呼ばれる玩具は三位一体修道院長のセルギイ・ラドネジスキーが自ら削ったものです。
 彼は自分で玩具を子供たちに与えました。
 全ロシアから修道院に集まった礼拝者たちは、喜んで玩具を自分の子供に買い与えました。
 皇帝の子供の玩具の中にすら(セルギーエフ・パサートの)「少年兵の馬車」「大盃」「赤い飾りスプーン」のような玩具がありました。
 皇帝が子供や家族と一緒にセルギーエフ・パサートに礼拝にに来たときそれらを買ったのです。

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Д. Питюгин         D.ピテューギン
8ピースのマトリョーシカ
死せる魂
セルギエフ・パサード 1909年
玩具博物館

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V.イワノフ
12ピースのマトリョーシカ
セルギエフ・パサード 1903~04年
芸術・教育・玩具博物館

 18世紀末~19世紀初頭から我々の時代まで、ココシニキを被った農民娘、踊っている農民、綺麗な服を着た地主婦人と騎兵等を型取った木彫玩具等が残っています。
 これは巧みに彩色された木彫の作品でした。
 削って彩色された「地主婦人と騎兵」は素晴らしい妙技で作られ、その生活の個性的な迫真性が注目されました。
 そのようなわけで、モスクワの専門の芸術家の工房で絵付けされた、新しい木の旋盤による玩具、つまりマトリョーシカは、先祖代々の玩具職人が働いている古い玩具製造工房で第2の誕生を迎えることになりました。
 1900年マトリョーシカはパリ万国博覧会に展示されてメダルと世界的な名声を獲得しました。
 そこで外国からの注文が来たのですが、このとき、セルギーエフ・パサートの高度に熟練した職人だけがこの注文に応じることができたのです。

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7ピースのマトリョーシカ
セルギエフ・パサード、1920年代
玩具博物館

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 1904年A.I.マーモントフは自分の店をS.T.モロゾフに売り、セルギーエフ・パサードに工房と支店のついた手工業博物館を開きました。
 この工房で働くためにモスクワからロシアの最初のマトリョーシカを削った旋盤工のワシリー・ズヴョーズドチキンがやって来ました。
 この工房でA.I.マーモントフに頼まれて、新しいマトリョーシカモデルを創造し続けたのです。
 20世紀初頭の数10年間、セルギーエフ・パサートで芸術作品マトリョーシカの生産と絵付けが急激に発達し、それは非常に個性的でしたので、長い間ロシアのマトリョーシカのスタイルと絵付けに影響を残しました。
 この時こそ、セルギーエフ・パサートのマトリョーシカの活気のある、言い換えればリアリスティックな基本モデルが急激に創造された時期でした。
 セルギーエフ・パサートは昔からのロシアの色彩豊かな町です。
 大修道院がそれに独自性を付け加えました。
 修道院の向かいにある大きな市の立つ広場は、商人、僧侶、巡礼、手工業者等々雑多な人だかりであふれたものです。
 最初のセルギーエフ・パサートのマトリョーシカはロシアのサラファンを着て、籠、鎌、花束等を持ち、冬の外套を着てショールを頭に被ったり:特徴的な古式分派の分離教徒の礼拝服を着たり、蝋燭を手に持った婚約者の男女や、木の笛を持った羊飼い、ふさふさした長い顎髭の老人等々、様々な人生の様子を表す、自分自身の独特の形と色調を持っています。
 初期のセルギーエフ・パサートのマトリョーシカは、女性と並んで、しばしば男性のキャラクターも見られます。

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В. Иванов V.イワノフ
ウクラートカ(装飾ケース)、農民娘
セルギエフ・パサード1903~4年
玩具博物館

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И. Бусыгин ブスィギン
ウクラートカ(装飾ケース)エルマク
セルギエフ・パサード
芸術・教育・玩具博物館

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 時々マトリョーシカは子供や家族等たんくさんの自分の家族を見せてくれます。
 歴史的なマトリョーシカは、大昔と17世紀のロシアの大貴族とその婦人、伝説上の豪傑等々、この頃の流行に合致するスタイルによって大いに普及しました。
 しばしばマトリョーシカは文学作品をモチーフとして描かれました。
 例えばN.V.ゴーゴリの生誕100周年記念の1909年には、彼の作品のタラース・ブーリバ、プリューシキン、市長等のシリーズのマトリョーシカが作られました。
 1912年、つまり1812年の、ナポレオンと戦った祖国防衛戦争100周年記念の年には、クツーゾフとナポレオンと彼らの将軍の像の入ったマトリョーシカが作られました。
 マトリョーシカは又プーシキンのおとぎ話から「ダドン帝」「白鳥の女王」、P.P.エルショフの同名のおとぎ話から「せむしの子馬」、I.A.クルィロフの寓話「四重奏」その他色々な英雄叙事詩をモチーフとした絵が描かれました。
 彩色と並んでセルギーエフ・パサートでは、焼きゴテによるマトリョーシカも作りました。
 普通焼きゴテは、衣服、顔、手、ショール、そして髪の毛等々、全ての絵がらの装飾に使われました。
 時々焼き付け描方は、着色の下の小さな装飾として、例えば手に持った花束やスカーフの花の表現を補足しました。
 伝統的なマトリョーシカの形に、ロシア古来の(頭の尖った)兜の形や円錐形に旋盤で削るというような、実験も試みられました。
 しかしこの新しいやり方は消費者の評価を得ることがなく、伝統的な形が採用されることになりました。

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И. Прохоров プロホロフ
6ピースのマトリョーシカ
せむしの仔馬
セルギエフ・パサード1903~4年
玩具博物館

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ウクラトカ(装飾ケース)
侍従服の仔牛
セルギエフ・パサード1900~14年
玩具博物館




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この記事へのコメント

マトリョーシカずき
2010年11月30日 22:41
はじめまして。初めてコメントさせていただきます。
おどろきました。
このマトリョーシカの本、ずいぶん前に買って持っているのですが、ロシア語で書いてあるので何がなんだかわからなかったです。
箱根の七福神がルーツって書いてあるんだろうなと想像して見てました。
マトリョーシカにいろいろな芸術的なデザインがあって、単なるお土産物を超えているというのをこの本を見て知り、マトリョーシカに興味を持ってました。
好きでいくつか購入もしました。
轆轤細工の田中さんの店も、まだ行ったことはないのですが、一度伺いたいと思っていました。
今日、このブログを見つけたので、全部読むのに時間がかかりそうですが、これからゆっくり読ませていただきます。楽しみです。 2010.11.30
2018年05月14日 18:08
拝啓 コメント投稿者様。本ブログ管理人です。画像使用のお申し出を頂きありがとうございます。
ここに頂きましたコメントに従ってお返事を差し上げました。
頂きましたコメントに個人、あるいは組織関係の情報が含まれていましたので、悪戯被害防止の意味でコメントを非表示にさせて頂きました。
なお、差し上げましたお返事が届かなかった場合は、改めてコメントを頂きますようお願いします。
また、このように対応させて頂きました関係上、お返事が届きましたら着信確認メールを頂けましたら幸いです。よろしくお願いします。

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